30年前と同じ疑問

ふと気がつくと前のblogから10日以上もたっている。毎日何人ものメールコーチングを返信しているので Mac.の前に座っている時間も長いのだが、そこに注ぎ込むエネルギーとblogに書くという事は同じ「書く」でもまるで違う事に、ふと気がつく。
日本語のblogは「日記」が多いのだという。自己表現、自分の事を知って欲しい、という要求が多いのだとも聞く。そうか、確かに私はこういうコーチングをしてますよーという意味では知っていただきたい事がたくさんあるし、考えてみれば他の方々にも役立ちそうな濃い内容のメールコーチングも多い。
HPのささやかな体験談を読んで下さっただけでも「他の方のコーチング体験をもっと知りたい」というリクエストをいただくし、確かに以前のように研修や合宿のように様々な体験をシェアできる環境も重要だと思う。
ただ、現在主流にしているメールコーチングの一部を突然ピックアップしても他者には文脈が分からないし、筋道たてて書こうとするとそれは凄い労力になるし、何よりも個々人のテーマから派生してくる内容なので、「誰のもの」と特定できないにしても守秘義務を私は意識せざるを得ない。う〜〜ん、確かにもったいない。
さて、今日のタイトルは先日ライブセッションをしていて、テーマになったというよりは「30年前も同じ事を考えたな」と感じた事で、「疑問」というよりは私や私のコーチングを支持して下さる方に共通な考え方かもしれないと思い到った。それは「輸入」と「資格」に関すること。
30数年前に私がやむにやまれぬ衝動で始めた事は、個々の資質にふさわしい能力を本人が引き出すきっかけを掴む事ができる教育の手法で、方法論としてはとてもシステマチックでコンパクトにまとまった米国からの輸入メソッドだった。そしてそれを実行しながら「こういう事の本質って、本来日本人の中にこそ眠っているのでは?」と考えていた。もちろん輸入されたものだから悪いという事ではなく米国ならではの合理性はとても一般に受け入れられやすいのだけれど、それに奥行きを加えようと考えると、大きく2極分解していくというニュアンスを30年前にも感じたのだ。それは「より高度な認知された資格を目指す」という方向性と「形の見える姿に形骸化していく事を良しとせずにメタフィジカルな方向を目指す」という方向性。どちらが正しいのではなく選ぶのは魂の性向だと思うが、それぞれに極端に走ると権威主義的な匂いを発したり、独断的なドグマに陥ったりする状況、状態をあまりにもたくさん観て来たかもしれない。その意味、コーチングという業種は、立脚点がビジネス界なので前者的なニュアンスが今後、ますます強まる傾向かもしれない。
私はメタフィジカルな世界とは最も根源的な創造性に関与していると考えるので、何か30年前に考えた事と似ている今の状況を書いてみようかと思っていたところ、タイムリーなメールをコーチングの相手から受信した。メールの主はメールコーチングを受けて下さっている方で、権威主義の最たる教育界の中で現役を続けながら今年某大学のドクターコースをとり、大きなビジョンを追求している方である。こういった姿勢や考えを持つ方々とコーチングを重ねていける幸せを感じるとともに、縁の不思議さをますます深めていきたいと考えている。
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○○教授は、輸入したものではない日本型の教育に沿った図書館活用を模索することを常に力説しておられるのが、革新的なんです。
先生の以前のご著書も当時、革新的で爆弾?でしたが、今度も爆弾かも?今までの学校図書館活用マニュアルはアメリカ直輸入の研究者サイドのご託宣ばかりという反感を私は持っていましたが、学校図書館法にも50年たってやっと魂が入りそうな気配です。
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