「自死という生き方」について

SNSで送られてきた日記に自殺に関する内容があり、コメントを返す前に最近の朝日新聞でみた須原一秀著「自死という生き方」の書籍広告を思いだして、まだ本は手にいれていないので検索してみた結果、id:akehyonさんという方の日記にたどり着きました(2007-12-20)。須原さんご本人もはてなダイアリーに1日だけ日記を残しています。id:KANTAN
私の仕事でも、肯定的な社会性を持とうとする方々の意識の背後にも「緩慢な自殺」と呼びたくなる意識を感じる事がままあります。人間の意識という内的環境へのアプローチについて、一度須原さんとお話ししてみたかったという気持ちにかられましたが、すでにそれは不可能です。。。。本はぜひ読んでみるつもりですが。
「緩慢な自殺」という言い方は古い話になりますが20年近く前、亡夫と話をしていた折りに私の口から飛び出した言葉です。何かで読んで眠っていた言葉なのか、私が作った言葉なのかも定かではありませんが、夫はその時決して悲観的、厭世的な言葉を言っていた訳ではなかった、どちらかというと強がった表現をしていたのではないかと思うのですが、私はこみ上げて来た一種の怒りを込めて「貴方は緩慢な自殺をしているみたいだ」と低く叫んだ事を、その時の場の光景とともによく覚えています。その時の話題にそれを感じたのではなく、出会いから何年かのブランクを経て再会した当時の彼の意識のベクトルに感じていた事の積み重なりがその時、口をついて出たのです。彼がなんと答えたのかは覚えていませんが、一瞬息をのんで、そしてとてもローキーになって何か「凄い言葉だ」というような意味の事を言ったように思います。彼は自他ともに認める、どうみても何が起きても自殺するタイプではないのですが(人からよく「生き急いでいる」と言われる事に怒っていました)極めて特異な人生を送った人なので、私の言わんとした意味は伝わったのが分かりました。もちろん人は皆、死に向かって歩いている事は間違いなのですが、それとは違って何か無意識の中に死を育てているという印象でしょうか。その後彼の中から完全にそれが払拭されたかどうかは別としても、彼自身がその後他者へのアドバイスとして、緩慢な自殺と言う言葉を使って「はっ」と気がつく方々がいらした事は小さなエピソードです。
冒頭のSNSの日記の方はご自身の事として自殺を書いたのではなく、最近の社会現象としての自殺にどこから目を向けたら良いのか、隣にいて気がつかないという事はないだろうか、という真摯な気持ちで書いていらっしゃいます。私も「人のつながりとはなんなのか」というコメントを書きました。