木瓜の花

三月三日。桃の節句。女の子のお祭りですね。
庭では、桃ではなくて「木瓜の花」が咲き始めました。10月から1月末まで毎日掃き清めなかれば積もるほどに咲いていた「山茶花」はゴージャスでしたが、木瓜の花は、なんだかけなげな風情です。
ボケという発音をすると「惚け」「ボケ」という文字が当然連想されますが、その連想が言葉の貧しさに繋がって行くのが感じられる今日この頃です。。。。若者言葉の事ではありません。
「ボケ」から連想するのは例えばふんわり遠くを見つめるようなまなざしになって来た老人を見て「じーーーさん、この頃少し惚けたんでないかぁ?」などと少しの戸惑いと心配と揶揄を込めた初老の息子の言葉。。。という風景。「認知症が進みましたでしょうかっ?」と医師の前で眉間にしわを寄せて問いただしている現代の光景と対比してしまいます。
「惚け」という漢字は「惚れる」と同じ字。なんとイマジネーションが豊かに働く事でしょうか。
それにも増して最近一番心が痛む言葉のひとつが「後期高齢者」という認証です。この言葉を決定した「人間」には、自分の親を思い浮かべたり、自分がその年齢になって「そう呼ばれる」事への想像力が欠如しているとしか考えられません。もしも「そう呼ばれても平気」なら、感受性そのものがどこかへ去ってしまっているのかも。
ルドルフ・シュタイナー人間学に「霊・魂・体」という概念があります。人間の多様性を考えるのに分かりやすいので、私は「生きた概念」として説明する事がよくあります。「精神と心と身体」と言ってしまうと既に概念化された心理学や日常用語として先入観が規定してしまう事があるので、あえて「新しい意味」をつかみ取っていただく為です。そしてその中で「魂の機能」として「思考・意志・感情」を考えるとき、誰でもが持っているこの3つの機能のバランス、アンバランスを捕らえてみるだけで、日々の快・不愉快の見直しができるという利点があります。
2月の始め頃でしょうか。「後期高齢者」という言葉が記載された保険制度の「はがき」を手にした時の両親の部屋にたまたま同席しました。マッチの燃えさしを水の中に漬けた時に小さく「しゅぅ...」と音がするような。。。父からは軽い「怒」と「悲」、母からは「哀」が漏れたような。私ははがきを手にして「後期高齢者」という「意味不明」な表現に「!怒!」でした。年齢にしては理性的な人たちなので、その後、食事の席での話題は「75歳からが後期高齢者なら90とか100を越したら末期高齢者かぁ ははは」と笑う父に「うちでは祝期年齢者とでも呼ぼうか...」と私の言葉のほうが力ありませんでした。ちなみに父は85歳、母は84歳です。