短歌日記

FEILERのみやげをもちて 伊東まで 雨の最中に 友を見舞いて  
平成16年3月25日 T.I

この日T.Iさんが見舞って下さった「友」とは亡夫のことです。その時も、何年ぶりにお目にかかったのでしょうか。毎年の年賀状と、ごくごくたまのお電話でのお付き合いながら、その時は夫の身を案じて、時々おいでになっていたという熱海の別荘から足を伸ばして、当時私たちが暮らしていた伊東まで来て下さったのです。ご自身もハードな、でもとてもやりがいのあったお仕事をリタイアされて悠々自適のご生活とはいえ、心臓を悪くされてご無理の利かないご様子でしたが、亡夫にとっては人間的に尊敬してきた方だけに、嬉しい邂逅だったことは言うまでもありません。本当にこの方の気配りや他者に対する慮りは並大抵ではなく、私の事もいつも気にかけていて下さっていて、先日は外での会食にお誘いいただき、楽しいひとときを過ごしてきました。
その折りに私が「あの時にいただいた美しいタオル・・・」といった時に「実は」と取り出されたのが1冊のノート。毎日綴ってこられたという「短歌日記」です。一時は毎年1200通もの年賀状をだしていたというほど数限りない人との出会いをして来た仕事の中で生まれたのが、この「短歌日記」だったのだそうです。メモや長文の記録ではなく、この優れた抽象化の1行で「ああ、そうだった」とすべての情景が蘇ってくる。「この方法は人に教えたり広めたりなさったのですか?」と思わず質問したら「いえいえ」とおっしゃるので、それでは私のblogでぜひ書き留めておきたいとお願いしたのです。
昨日のblogに書いた「忘れることの大切さ」とも関連しますが、「きっちり記憶している」ことよりも「思いだす」という作業によって記憶は豊かな物語りに醸造されていく事もあります。人は自分が覚えていたいようにしか覚えていないとも言いますが、きれいごとに書き換える事とは違って、この「短歌日記」という抽象化作業は「記憶の中に生き続ける」ということを可能する素晴らしいかたちではないでしょうか。