脈々と流れるもの

昨年、書店で何気なく買って読んだ「狐笛のかなた」以来、上橋奈穂子さんにはまっています。

彼女が文化人類学者である事も背景に、「指輪物語」のトールキンに近いとの比較賞賛も目にしましたが、私にはトールキンよりも面白い。どこが面白いのかの私なりの観察のひとつに、欧州で書かれたファンタジーは殆どが様々な試練を経ての自己成長を綴る冒険物語ということに対して、上橋さんの本の登場人物たちは最初から「内なる自分の感じ方」を大事にしているのではないかと思っています。いや、大事にしているというのは当たらないかな。もちろん上記の冒険物語を読むにあたっても、読者は登場人物たちの内面に感覚を投入し、ハラハラドキドキと一体になって読む喜びを味わっているのでしょうが、そういった感性とは少し違う、切ないような、もどかしいいような感受性をそれぞれに抱えて生きている。。。私にはそれがカタカムナの時代から引き継がれている因子のようにも感じられるのですが今回はカタカムナの話は置いておいて。。。その上橋菜穂子さんの面白い実験の話が数日前の朝日新聞に載っていました。それは「実験」という言い方はしないで、彼女が訪問する中学校の生徒達に、事前に課題曲を2曲聞いてもらい頭に浮かんだ場面や感想を原稿にして提出してもらうという事でした。生徒達の表現も素晴らしいのでここに引用したいと思います。

引用>ーーーーーーーーーー

「A曲についての原稿には、雪や旅人というフレーズが共通して出てきます」そこで、何人かに自分の原稿を読んでもらう。阿部花奈子さんは「Aの曲の切ない感じから、旅立つ運命を背負った少女が真っ白な雪の上を歩いて行くイメージが浮かびました」。三浦雅子さんは「冬の静寂を破ってオオカミの遠吠えが聞こえる。旅人が顔を上げると、朝日が山々の頂を染めて昇ってくるところだった」とつづり、「風景と一緒に色や音が浮かんでくる」と上橋さんをうならせた。一方、Bに触発された原稿には「砂漠というフレーズが多く、殺伐としたイメージが共通していた」と上橋さん。それをよく表していたのが、阿部光太郎さんの「灰色の街。建物の蔭に座り込んでいるひとりの男がいた」や、山本祥貴さんの「裏切り者!誰かが叫んだ」などで始まる作品だった。最後に上橋さんが「Aはシェクスピア原作の映画『ロミオとジュリアット』Bは1950年のイタリアを舞台にした映画『鉄道員』のサントラです」と明かすと、図書室にはどよめきが。2曲とも、雪とも旅人とも砂漠とも関係のない音楽だった!

初めて聞いたのに、なぜか場面が浮かんでくる音楽がある。ストーリーは忘れても「いい話だった」という読後感を残す本がある。「なぜなのか言葉にできない感覚が、音楽や物語の中に脈々と流れていることを感じてもらいたかった」と話す上橋さんだった。

ーーーーーーーーーー<引用おわり

私がこの記事に引かれたのは、上記した「内なる自分の感じ方」というテーマと伴に、最近改めて「画一教育の弊害」を感じる状況が多いせいかもしれません。「内側からの感じ方」に任せると、ほら、子供達は引き出し方ひとつで素晴らしい表現をする!という印象、これが映画の題名を先に教えた場合にはどんな原稿になっただろうという「外側から与えられる感じ方」との違いへの興味、それからもうひとつはイメージの共通性はどこからきたのだろう?という興味です。そんな事も含めて、潜在意識の位相に対する興味はますます尽きません。