叙人詩

Uさん 前にお話した「叙人詩」の新しいのものができたのでご紹介しますね。コーチングの他にこういった事もやっています。この方はどこに公表してもいいとおっしゃるので、読んで下さい。人生は物語り。。。一緒にその方を旅することも大切だと思っています。
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きみたちは 本当に生きているかい?
山田常之(1942年6月15日〜)

生まれた満州奉天の記憶はないが 生き延びた命は妹にもらった
父はシベリア抑留 母25歳 1年半の妹は母の懐で息絶えた
あの時 北から南へと 越えていなければ
3歳の己もまた かの地の土か 残留孤児の列に並んだ


辿り着いたのは母の実家 母の妹があげた素っ頓狂な声 
オデキだらけだった己の身体 焼けだされて疎開していた祖父母たち
矢作川での川風呂や 蚕部屋の記憶 そして祖父の死
やがて身を寄せた 父方の本家は 東京の薬局
父の不在と 母の頑張り..........
いとこたちへの気兼ねと その反動の負けん気は
かんしゃく玉のように 時々破裂したが
可愛がってくれたのは 小僧さんや番頭さん
ご用聞きに付いて行っては 製薬会社の名前を憶えたり
サーカスに 連れて行ってもらったことは 忘れない


6歳の時に 父が戻った 品川駅での出迎え 大量の涙
父の職探しの奔走 杉並への転居 めまぐるしくも嬉しい日々
そして8歳違いの妹が生まれた 
ある時 ふと父に尋ねた「お父さん どこに勤めていたの?」
三菱商事だったよ」
そのひとことで 進路が決まった 
父に対抗して 父に負けないために そのでかい商社に己も入ろうと


思えば真面目に勉強した記憶はない しかし いつでも点取り虫
どうしたら成績があがるかと どうしたら楽に点をとれるかと己を駆り立て
中2からは トップクラスに 躍り出た
ところが 父の勧めた路線に従って 早稲田高等学院に入って驚いた
「しまった 大学も機械工学に行けば 卒業するまで周りは男だらけだ」
それでもグループを作るのは大好き いつも大将でいなければ気が済まない
女の子にもてたかもてなかったか それは誰も 知るよしはない


意気揚々と入社した三菱商事での体験は さらにさらに驚愕の連続
商社という名の複合有機的な怪物は 戦争最前線のような熾烈の日々
欧米の輸入工作機器の販売で 国内有数の成績をあげたのも束の間
米国工作機械メーカーでの実習に 駆り出された後は
東欧圏向け輸出業務 
33歳にして ポーランドワルシャワ駐在員の 未体験ゾーンへ


私生活もまた 超加速度な展開か 見合いの4ヶ月後には結婚していた
3歳の長女と2歳の長男は 駐在先での幼稚園へ
ポーランド人のお手伝いさんにも それぞれなついて 可愛がられた
ちなみに見合いから結婚への決め手は「なんにも話さなくてもよかった」こと
ご趣味は? ご年収は? お決まりの会話は一切無く
最初から 家族のような空気の妻は その後もあらゆる変化を受け入れてくれた


東欧共産圏での日々は 思えば諜報部員のような連続
一挙手一投足が 見張られ 盗聴も日常の 緊張感の中 
上司の司令は さらに過酷だ もちろん自ら身体を張っている
車が雪に突っ込んでも手放すな! 注文書が命だ! の檄が飛ぶ
その上司の片足が義足であったことすら 3年一緒に居て気づかなかった
人間の幅と器 真剣度 命がけ 己が尊敬する先達のひとりだ


駐在を終えても 厳しい交渉の日々は続く
その日々を思し出しながら 就職活動に励む若者に告げよう
「地獄へ行くつもりで 社会にでろ」と それは命がけの自己革命を起こすこと
ルーマニア ブルガリア東欧諸国への出張は重なり
ある夜 ユーゴのホテルのベッドで ひとり「燃え尽き」た
小・中・高・大学そして30代 常にライバル意識を周りに持ち
闘志を 燃やし続けてきた己の価値とは?
仕事の成果が新聞に発表されようが 嬉しいと実感できない自分とは?


長期の駐在員生活のストレスは 身体にも精神にも影響を与える
40代 50代の上司を 数人失った このままで自分も良いわけはない 
しかし この後に 悟ることがあった わがままな自分 大将でいたい自分 
他人と同じ土俵はイヤなのだ 勝負や競争は 身を削る邪念だ


己は己の土俵でしきる だからと言って起業はしない
ライバル意識は変容を遂げ 会社内での出世は止まった
出世するより 知恵者になろう 自分の確実な証を優先しよう
応用数学自動制御の授業が ふと浮かび それを「商術」と名付け
これが「未来術」の基礎となった
ブラックボックスの術」「微分積分の術」など 20近い術ができた
仕事だけでなく生活の基本を この術に従った
上司のいうことより 自分の術を優先した
常に視野は大きく 世の中を変える本質を求める これが己の信条だ
本は読まないと公言しているが それは借り物の智慧だから
だけど最近気がついた 高校時代に読んだ 薄い文庫のデューイ
それが いつのまにか血肉化していた 己の「実践論」だと


義務感ではやらない 責任転嫁はしない とにかく自分から動く
ストーリーをつくる しきりを事細かに 
仕事とともに 己がどこまで成長するか
超生意気だったに相違ない いい加減な意見への 協調性はなかった
上からの仕事は徐々に手抜き 自分の仕事を表面化するタイミングを狙う
組織の矛盾や先が見えすぎて 困ったこともあったが 
本質を考える癖が ますます強化していった
上からの扱いは 難しかっただろう
そんな己が潰れなかったのは 大きな視野で見守る大物が
商社という怪物機構の中には いたからだ
それら先達の生き方 生き様を いかに若者に橋渡していけるか


40代を過ぎた頃 大きな転機が訪れた 耳が聞こえなくなったのだ
いまでも 40代の終わりには完全に失聴するとの宣告を
東大病院、日大病院で受けた その日を憶えている
人生がこれで終わる やり残したことはなんだろう
・老後
・音楽を聴く
・女性の友人がいない。
退職するまでの10余年 私生活では老後の先取りをすることに決めた
近所の善福寺池で 登山用の縄や繋ぎを使い 運動具を作った
お年寄りが寄って来て やまちゃん体操の先生になった
音楽は 丸の内ケンウッド 2年間昼のコンサートに通った
男性の友人を斬り 手話を通じて 若い女性の友人を作った
若い女性ばかりの中に 50を過ぎた男がひとり
恥ずかしかったが それには耐えた ここでも自分の土俵でしきり
難聴者の生き方を 考えた そして 1年で手話を脱出!


耳が聴こえないというだけで 世間を狭めてしまうのは怖かった
中途障害者は 臆病になる 自信をなくす 自分から世間を縮めてしまう
疎外感を持つ 意志の疎通が億劫になる そんな実感があるだけになお
己は 自分の言葉を持とう 
聴かれたことに 答えていこう そんな窓口にも なれるように生きよう
何かになることが人生の目的ではなく いかに暮らすかが大切だ
己ひとりの人生ではなく 他人の人生もご一緒しよう


56歳での準定年退社 もう 老後も終わっていた 
手話を捨てて飛び出した なんと社会の暖かいことよ
それなら 改めて 若い学生たちの 就職支援をしよう
その本心は 自分の耳が 欲しかった
東大の学生が 喰い付いて来てくれた
女性たちの MLにも参加した
そのひとりに誘われて 鎌倉の私塾を訪ねた時に
その後の生き方を決定づける 言葉をもらった
「君はプロデューサーになることだね」
「未来塾21」はこうして生まれ 独自にMLを管理した


09年2月に8年目を迎えた この不思議な活動に 今は
ほとんどの大学を網羅するメンバー そのOBたる社会人 総勢330名
発信数も1万を超えんとする頃 息子の嫁が「未来塾21ってなんですか?」
このきっかけで家族が全員 「未来塾21」のサイトをのぞいてくれた
「未来塾21」は 綴り続ける 己の遺言 己の生き方
明るい長女は 快活なママに 優しい長男は 福祉に向かっていた
ある時点から すっかり放任してしまった子供たちが 
新しい形の 親父を みつけてくれた 
父にこの姿を見せることは叶わなかったが
88歳の母には 100まで生きてもらおう
すさまじい勢い とてつもない変化について来てくれた妻には
創意と工夫の昼食担当「主夫宣言」 今年は それを実行している
機会損失を零に近づける究極の術を 若者たちに手渡し
社会への道筋を サポートしながら


己は己の思索に生きる...
沢山の人が問う 「山田さんのエネルギーは どこからくるの?」と
振り返ってみると いつも戦略、戦術を考えて来た そしてくまなく準備する
憧れるのは「路傍の石」...........
石は「宇宙の叡智」のすべてを記憶しているという


制作:織理 摂 2009.2.25