いきなり輪廻転生

先日メール友達から「唐突ですが、澄さんは輪廻転生を信じますか」という文章が届きました。ご自分の体験を元に「信じざるを得ない」というのが彼の結論です。その時の私からの返事は簡単な文面でしたが、改めて自分の考えてきたプロセスを辿ってみる気になり、ここに綴ってみることにしました。

私の場合、小さな頃は「死んだら無(何もなくなる)がいい」と考えていた割にはファンタジーの世界に住んでいた子供でしたが、今は信じる信じないというよりも「輪廻転生を前提にしないとつじつまが合わないことばかりでは?」が実感です。この場合の「輪廻転生」とは何をいうのか、をもう少し詳しく書かなければいけませんが。
中学の頃は芥川龍之介に引かれつつ「私も死よりも気が狂う事の方が怖い」と思ったり、多重人格者の存在を知って「私はそうはならないよな〜」と思いつつ怖い物みたさで色々な事を調べた気がします。そんな途上で輪廻転生の事も調べた記憶がありますが、今のようにネット検索もできない時代、何を読んでも誰かの話を聞いても納得のいく答えには行き当たりませんでした。高校生になってからは「なんとまあ、一人の人間の中には多様で複雑な意識を抱え込んでいるんだろ!」と考えるようになり、心理学や東西の哲学に触れても「人間とはなんぞや」「生きるとはなんぞや」の答えが腑に落ちない。学術的には過去の体系のどれかに組しないと専門家や研究者としては成り立ちませんが、問題提起が面白いので今度こそ、と思って読んで行く文献の論理の帰結には納得できない。「そうかなぁ、それだけかなぁ」と思ってしまう自分がいるのです。宗教に答えがあると考えた事は一度もありませんでした。

ただ17歳のある時「答えは自分の中にある」という体験をしてからは考え方の道筋が少し気楽になりました。潜在意識の事を考えるようになったのはいつの頃からか、記憶にありません。
そうそう小学生の頃に一度だけ、その頃尊敬していた大人に「人間はなんで生きてるの?」と聞いた覚えがあります。その人の答えは「人間はね、なんで生きているんだろう、なんで生きているんだろうと考えながら最期に死ぬんだよ」でした。とっさに心に浮かんだのは「ちがう!」・・・でも、口にはださずにそのまま・・・その人に対する尊敬は年月を経て、今では「愛おしい人や」に変わっていますが。そして更に思う事は、その人にとってはそれが「答えは自分の中にある」だったのだと言う事です。

さて、諸々の疑問がストンと腑に落ちたのは20代の最後に潜在意識の可能性を基本を置いた語学の学習法に触れて「これは私が形にできないまま抱えていた教育法を拓く入り口だ」と感じ、それをきっかけに米国産の能力開発の講師資格をとってセミナーなどを開催しながら「アメリカはこうやって誰でもが実践できるシステムに纏めあげてるは上手だけど、この背景には東西の過去の哲学や科学や思想の実践があるよなあ」と感じていた頃に出会ったのがルドルフ・シュタイナーの精神科学(リンク)だったのです。私はシュタイナー信奉者ではないので、彼に見えたもの全てをそのままで受け入れている訳ではありませんが、何が一番腑に落ちたかというと「アンチテーゼではない思考活動」だと思います。
私は大学紛争のシッポの世代なので、予備校時代に吹き荒れた議論の嵐の中にも身を置きました。次々に分派が生まれる彼らの行動やいがみ合いには辟易しつつも、やはり何かせねばという気持ちがなかった訳ではないので、議論を挑んでくる相手とは時に真剣に議論をしましたが、議論に議論を重ねてもオルグできないと知ると、必ず吐く言葉だけはどの派閥でも同じ「何も行動しないという事は(俺たちに組みしないことの意味)あんたは体制側だってことだっ」ですね。で、それには反論せず「むむむ、そうは言ってもあなた方の理屈は私の行動には結びつかなーい。いつか必ず違う方法で革命を起こしたるゾ」と黙って思ったのがその頃の私でした。
その革命の答えのひとつは日本では1981年に出版された「アクエリアン革命」(リンク)でしたが、今は再びシュタイナーに戻ります。
シュタイナーの「認識の小道」を知って考えた事は「なるほど、そのように考えれば過去の納得がいかなかった事に納得がいく」という単純なこと。まさに精神を科学するということなので最近の「脳科学」の解明はとても面白く思っています。
「全ての事には意味がある」と言ってしまうと安易ですが「科学的である」or「ない」ではなく「霊魂は存在するか」or「しない」ではなく、ましてや「こちらが正しくて」「あちらは正しくない」でもなくそれでいてどっちつかずではない視座の確立。「性善説」と「性悪説」の二元論や「多神教」か「一神教」かの対立ではないものの考え方が「やったね!」の印象でした。
最近の中学生がエンパシーという言葉をまったく自然に使っているのを聞いて嬉しく驚いた事があります。エンパシーの実感を持つというのがどうやら容易ではないという事は、人間関係の中で今でも実感しますが「反感と共感」の作用や「死んだ概念」と「生きた概念」、「外部感覚」と「内部感覚」などなど、30代前半はとても楽しく学んだ事を思い出しています。

冒頭の友人に返したメールのは以下のようなものでした。

○○さん、
私の場合、「信じるか信じないか」というよりも「認めざるを得ない」のような気がします。
宇宙という不思議な生き物を考えても、相当長いスパンで繰り返しは起きている訳ですし、科学の様々な分野から考えても構成・再構成はミクロの次元でも起きているわけですし。
だから「過去世」はナポレオンだった、とかいう次元ではなく、また霊媒や霊能者が「見える」という次元でもなく、私の場合、他者の過去世を感じとるのは、相手の「行動様式」からです。
いきなり過去世を持ち出したりはしませんが、コーチングをしているとどうしてもそういう場面に行き当たることがあります。
そして、そのへんの対話がうまくできると、一気に飛躍したりします。今まで必ずその前で立ち止まっていた壁が越えられたりします。
バリバリのビジネスマンとメールでその方の前世の事を話しあったりとか、おかしいでしょう?通常の意識から乖離しないで話題にするコツなどもだんだん蓄積してきました。要は、自己のハザードをどうやって乗り越えるかのひとつの参考ポイントだと思います。